かつて将軍家の別邸があった北品川の御殿山、その後、富裕層の住宅地が形成された閑静なエリアに、「原美術館」は和塀に囲まれてひっそりと佇んでいる。同館はもともと、東京ガス会長や帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)総裁などを務めた実業家、原邦造の自邸として1938年に建てられた。設計は戦前を代表する建築家、渡辺仁(1887-1973年)である。
渡辺は服部時計店(現・和光ビル、1932年)や東京帝室博物館(現・東京国立博物館本館、1937年)など、数々の洗練された歴史主義建築を設計した。なかでも東京帝室博物館は、当時の新技術だった鉄骨鉄筋コンクリート造を卓越した日本的表現によりまとめあげたものである。しかし、落選覚悟のモダニズム案でコンペに応募した前川國男の案がメディア上で大きく取り上げられるなど、渡辺の「日本趣味建築」はモダニズムと対比的な位置づけを与えられていった。
様式建築の名手だった渡辺が、キャリアの後半に設計したモダニズム建築が原邦造邸である。既存の日本家屋(ほぼ現存せず)に併置される形式で、邦造の夫人の希望からモダンで明るい家が求められたという。建物は敗戦後に接収され、その後一時は大使館に使われるなどを経て、邦造の孫にあたる原俊夫氏(公益財団法人アルカンシエール美術財団理事長)によって1979年に現代美術館として開館した。ここでは邸宅建築特有のゆったりとしながらも小規模な空間構成を活かして現代美術とコラボレーションがなされている。美術館のための変更はあるものの、オリジナルの持つ空間や素材は健在である。
外観は写真などでは真っ白な印象があるが、実際に見ると青い斑点のある大きめのモザイクタイル張りで、目地をほとんどとらずに軒裏まで徹底して覆っている。アプローチから見ると、車寄せの庇を支えるトラバーチンの壁柱が存在感を放ち、テラスの柱梁フレームと階段室の曲面ボリュームとのコンポジションが美しい。玄関脇の旧応接室は、吹抜けの上階部分から映画などを映写していたそうだ。石張りの暖炉壁(実際は暖房器具)が空間のアクセントになっている。
平面は特徴的なレの字の形をしており、直線部分にあたる平屋には家政事務所が入っていた。南から東にかけて緩やかにアールを描く棟には、1階にリビング・ダイニング、2階に寝室を配している。そこから見える景色や方位からこのような平面が採用されたのだろうか。
リビングとダイニングはひとつながりのワンルームとして緩やかにカーブを描き、必要に応じて仕切る可動間仕切り壁があったことが、オリジナルの寄木張りの床から窺える。そこからつながる半円形の朝食室は最もモダニズムらしい透明性を感じる空間だ。天井とテラゾーの腰壁の間には曲面のスチールサッシュとガラスしかなく、上階のバルコニーを支える天井スラブはキャンチレバーで支持柱がないため、外部の緑を移すスクリーンのようである。2階の寝室の窓は横長の上げ下げ窓となっている。上げ下げ窓は通常、縦長窓で使用されるもので、横長窓だと重量があり開閉は楽ではなさそうだが、ここでは框が景色の邪魔にならないために採用されたのだろうか。現在は敷地が縮小して隣地が迫っているが、当時は品川沖まで見渡せたそうだ。
下写真:寝室の横長上げ下げ窓
中庭はもともと建物の裏側のスペースだったが、現在は美術館の中心的な心地よい外部空間となっている。磯崎新により増築されたカフェテリアとホールも既存部分と調和している。中庭に面するファサードは、控えめな横長の窓、鉄筋コンクリート造の柱形による列柱のようなリズム、壁面ラインの操作により、初期モダニズムらしいデザインでまとめている。
下写真:心地よいスケール感の中庭
2階へ上る階段は、1段目の段板と黒大理石の手摺壁が円弧を描いて回り込むデザインとなっている。段板にノンスリップの溝が彫られているのも手の込んだ仕事だ。2階へ上るとさらに屋上庭園へと至る廻り階段が見え、彫りの深い壁のガラスブロックが光を拡散している。廻り階段下の半円ドーナツ状の常設展示空間はもとはトイレで、当時は今のように通り抜けられる空間ではなく、突き当たりに小便器を置いていたというから遊び心がある。
下写真:踊り場の大開口に照らされた2階への階段
原邦造邸にはモダニズム建築の持つイデオロギーを感じない。機能や外部との関係に応答した有機的な空間構成、そして素材やディテールの豊かさがこの建築の一番の魅力である。
(本記事は、CLUB OZONE会報誌「o-cube」2019年7月号掲載の拙稿をもとにしています)
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